「常滑市陶磁器会館」の歴史
常滑市陶磁器会館は、常滑焼産地の中核施設であり、その建設経緯は明治時代にまでさかのぼります。明治19年の陶工組合、同23年の陶商組合を経て同33年に常滑陶器同業組合の設立当時からの念願であった「陶器館」は、常滑焼の先人の尽力により幾多の曲折を経て昭和4年に完成したものですが、昭和の高度成長期の社会的要請に常滑焼業界が苦渋の決断により、その要請に応える形で、現在の地に移転新築されました。
このような経緯は、やきものの町常滑の重要な史実として永遠に記憶されるべきものであり、中部国際空港や知多地域との連携を念頭に置いた観光立市「常滑」として多くの観光客が訪れるようになった現在、陶磁器会館の役割はますます重要性を増しており、その拠点施設の歴史ややきものの産地常滑の人々の地域を想う志を理解することにより常滑焼の魅力をさらに高めるものと考えています。
これらの経緯は、平成12年11月26日刊行の「常滑の陶業百年」に記載されており、その内容を以下に掲載します。
常滑陶器館
常滑陶器館の最初の計画は明治25年といわれている。その年には陶器館設立寄附金および儀損金を集め、翌年に屋敷田にある現在の西小学校敷地内に約400坪を買い取った。そして、陶器同業組合事務所を建築して暮には完成したが陶器館は出来なかった。その後、同34年、42年にも陶器館の建設計画が促進されたが、たまたま、同43年9月に所有地が小学校敷地に決まったので町に譲り渡して、新しい用地として宝樹院の西側一帯を買収した。その後、大正期にも建設の気運が高まったことがあるが遂に実現しなかった。
昭和2年いよいよ陶器館の実現を期し、予算および敷地を決定して翌年7月に工事着手して、同4年5月にようやく竣工することができた。『知多新聞』(昭和4/5/11)によれば町民にとっては長い間の念願が、やっと実ったという感じであり、竣工当日は2尺玉花火以下3,000発が打ち上げられたという。なお、館外陳列所、庭園及び諸施設などすべて完成したのは同5年3月であった。
本館は鉄筋コンクリート造2階建、延120坪で、外壁は伊奈製陶が製作したテラコッタやスクラッチタイルで飾られた近代建築であり、常滑のシンボルとしての風格を備えた堂々たる建物であった。
その後、陶器館は常滑陶器の中心的役割を果たしてきたが、隣接する常滑電報電話局の増設計画に伴い、陶器館を移築することとなった。そこで、種々論議を繰り返したあげく、陶器館は取り壊すことになり、新しく常滑市陶磁器会館を北条中郷(現在の栄町3丁目)の旧常滑陶磁器試験場趾に移転させることにした。
旧陶器館に張り巡らされたタイル・テラコッタの外壁は、面積は小さくても昭和初期に建てられた、タイル市場に残る名作の一つとされて、常滑の誇るシンボル的建築物であった。現在一部のテラコッタは常滑市民俗資料館(現在の陶の森資料館)と窯のある広場資料館に保管されているが、この陶器館が、タイルの生産地として有名な常滑で保存できなかったことについて、惜しむ声が聞こえてくる。(「常滑の陶業百年」83頁)
陶磁器会館の移転
常滑市は昭和45年に常滑市陶磁器会館を北条字中郷23番地(現在の栄町3丁目8番地)の愛知県陶磁器試験場跡地に建設した。会館は3階建て延面積380坪で、1階は常滑焼展示即売場、2階は常滑陶磁器工業協同組合、常滑陶磁器卸商業協同組合、愛知陶管協同組合の事務所とし、3階は会議室、和室で構成されている。この3組合の主催で同年10月26日に竣工祝賀協賛行事を開催した。
開館までの経過を追ってみると、同30年代後半から、常滑電報電話局では管内の電話需要の伸びが著しく、1万回線の増設を行う必要に迫られていた。
これに対応するには局舎の増築が不可欠で、最悪の場合は大野、大谷、小鈴谷地区などが市外通話地域となる可能性も心配された。そのため、電話局は北側隣接地2,540坪のうち、常滑陶器館を中心とした435坪の敷地を買収したい旨の陳情書を同41年に常滑市に提出し、さらに同44年6月に私有地払い下げの申請をした。
この土地は明治43年に組合が買収した約700坪を、大正5年7月に伊奈初乃丞ほか4名の組合役員が各1/5ずつの持分で共有名義の所有権登記を行ったのを始めとして、その後も逐次買い増しをして昭和3年3月に総面積2,540坪となった。そこへ昭和5年3月に陶器館、陳列所および庭園を完成させた。ついで常滑陶磁器工業協同組合が昭和7年に、愛知陶管協同組合が同11年に組合事務所を建てて使用してきた。
なお、この土地はその後、昭和43年3月30日に組合(杉江達太朗ほか4名の名義)から常滑市に寄付し、採納された。一方、昭和30年代より常滑市は愛知県に対して、北条中郷にある愛知県陶磁器試験場を移転拡張する陳情を県に出していた。県はこれを採択し、同43年11月に竣工させた。そして、愛知県窯業技術センターと名称を変えて移転した。
そこで、常滑市は天神山の鯉江方寿翁陶像への通路などを考慮して、343坪を電話局に払い下げることとし、陶器館の移転先を試験場跡地に考えた。なお、売却する土地が前記のように、組合から寄付を受けたうちの一部であること、および組合事務所立ち退きの代償として、3組合に対して試験場跡地に鉄筋コンクリート3階建ての常滑陶磁器会館を建設したい旨を同44年12月に提案してきた。
翌年1月より市側と組合側は建設運営委員会を設けて、両者の契約案作成などの協議に入った。その討議には、旧陶器館を残して電報電話局を移転させる案も出されたが、電報電話局側は試験場敷地には池があって湿気が多く通信機器の設置には適さないこと、増築ではなくて全体の新築になるなどの理由から原案を固辞したので、最終的には原案通り陶器館を移転することに決め、建物は市立であるが運営管理は運営委員会に委託することとなった。
そこで、上天の池の埋め立て工事から始まり、同45年に竣工式を挙行した。(「常滑の陶業百年」117頁)